恐竜発見・研究史


ずっと以前-何世紀も前から、「現在生きるどの生物とも異なる、摩訶不思議な巨大な骨、化石」は世界各地で見つかっていました。 たとえば、古代ギリシア、古代ローマ、中国などでは、これらの骨、化石を神話に登場する英雄や怪物たちが残したものと考える学者たちもいたようです。

これらの化石が科学的に認識され始めたのは、1820年代。イギリスが舞台でした。


イグアノドン、メガロサウルスの発見と恐竜(1820-1850年)

イグアノドンの切手

イグアノドンの切手(イギリス)

1811年頃、イギリスではドーセット州で見つかる魚竜イクチオサウルス(と有名になった化石収集家メアリー・アニング(Mary Anning))が話題となっていました。
イギリス・サセックス州の田舎医者だったギデオン・マンテル(Gideon Algernon Mantell)はこれに触発され、化石・古生物に興味をもつようになっていきます。 彼は、石灰岩質で覆われるウェールド地方でみつかる化石を収集しました。 それまでイギリス国内の知られていた白亜紀化石は海棲のものであったにも関わらず、彼が収集する化石の中には陸地を示すものも含まれていました。 1822年頃、採取した化石のなかに「よくわからない歯の化石(既知の生物では同定できない化石)」が混ざっていることに気がつきます。 複数の科学者にも鑑定を依頼しましたが、「魚か哺乳類のもの」や「白亜紀の地層からの産出ではない」と断定した回答ばかり(のちに 大英博物館自然史部長・"恐竜類Dinosaur"の名づけ親となるリチャード・オーウェンでさえ、この歯を哺乳類のものと同定していました)。 ギデオン・マンテルはその回答に納得せず、独自に観察・研究を続けていきます。 他の科学者たちを納得させるのに時間を要しましたが、1825年爬虫類イグアナの歯に似ていたことから「イグアナの歯」を意味する"イグアノドン"と名づけて記載します。 歯の大きさはイグアナの約20倍、そのことからイグアノドンの全長は18mと推測されました(のちの新しい発見・研究によって、実際のイグアノドンは全長7-9mであることがわかっています)。

メガロサウルスの下顎化石

メガロサウルスの下顎化石

イグアノドンが記載される1年前-1824年にイギリスの地質学者ウイリアム・バックランド(William Buckland)が巨大なトカゲを意味するメガロサウルスを論文記載していました。
1797年医師だったクリストファー・ペゲ卿(Christopher Pegge)は、同じストーンズフィールド石灰岩採石場で肉食動物の下顎化石を発見しました。 キリスト教会解剖学学校のコレクションを経由して、オックスフォード大学地質学教授 兼 キリスト教会の学長だったウィリアム・バックランド(William Buckland)がこの化石を取得します。 フランスの比較解剖学者の協力もあり、この顎化石が絶滅した巨大なトカゲのような生物のものであることがわかりました。 ウイリアム・バックランドは1824年ロンドン地質学会で"メガロサウルス"を提言します。

イギリスの比較解剖学者、生物学者(当時、王立外科医師会の教授)だったリチャード・オーウェン(Sir Richard Owen)は、中生代に生息していた大きな爬虫類(ウイリアム・バックランドが1824年に記載したメガロサウルス、ギデオン・マンテルが1825年に記載したイグアノドン、同じくギデオン・マンテルが1832年に報告したヒラエオサウルス)に興味をもちました。 リチャード・オーウェンは、1841年イギリス科学振興協会の会合で、イギリス南部から発見されたこれら3種の巨大爬虫類が他の爬虫類にはない特徴を備えていると主張します。 その翌年1842年、リチャード・オーウェンは「中生代に生息していた3種の巨大陸棲爬虫類を"Dinosauria(恐竜類)"と呼ぶこと」を提唱しました。 Dinosauriaとは、ラテン語で「恐ろしい(素晴らしい)トカゲ類」を意味します。 リチャード・オーウェンは当時、恐竜と呼ぶことにした3種はゾウやカバのような厚い皮をもつ爬虫類と考えていたようです。

その後、ヨーロッパではコンプソグナトゥス(1859年,ドイツ)、始祖鳥/アーケオプテリクス(1861年,ドイツ)、イグアノドン(1878年,ベルギー)、ヒプシロフォドン(1889年,イギリス)など多くの恐竜が発見されました。 新しい化石・恐竜の発見・研究によって、オーウィンが考えた「厚い皮をもつ」ことに疑問を抱く学者が増えていくことになります。


エドワード・ヒッチコックによる足跡化石の発見(1835-1864年)

1835年("恐竜"という分類名が提唱される7年前)、地質学者エドワード・ヒッチコック(Edward Hitchcock)はアメリカ北東部ニューイングランド-コネチカット渓谷(三畳紀後期の地層)で奇妙な足跡化石を見つけます。 彼はこの3本の指を圧した化石を、「古代に生息していた鳥の足跡」だと考えました。 足跡の大きさから、推定全長約3.8 - 4.5mの巨大な鳥が砂上を駆ける姿を想い描いていました。それ以降、足跡化石の発見・研究に没頭します。 エドワード・ヒッチコックは1864年に生涯を終えるまで20000点を超える足跡化石を見つけます。

エドワード・ヒッチコックが生涯を通じて鳥のものと考えた足跡は、今では「恐竜がつけたもの」であることがわかっています。

かんが


北米での化石発掘戦争 -コープとマーシュ(1870-1897年)

19世紀末に活躍した2人のアメリカ人古生物学者、フィラデルフィア自然科学アカデミーのエドワード・ドリンカー・コープ(Edward Drinker Cope)と イェール大学ピーボディ自然史博物館館長オスニエル・チャールズ・マーシュ(Othniel Charles Marsh)、 1864年に2人が出逢ったころは友人同士でしたが、時が経つにつれて友情にひびが入っていきます。 コープは短気で喧嘩っ早く、マーシュはのんびりして几帳面で内向的だったそうです。
2人は1877年~1892年にかけて、アメリカ・コロラド州、ワイオミング州、カナダのアルバータ州などで化石ハンターたちを雇って大規模な発掘、調査を行いました。 お互いにライバル視し、時にはスパイを送り込んで相手の妨害(例えば、相手の発掘地をダイナマイトを使って破壊)をしたり、個人攻撃を繰り返しながら、多くの恐竜化石を発掘・記載していきます。 コープは計56種、マーシュは計80種、2人合わせて136種に及ぶ新種の恐竜を発見、記載しています (※その後の研究で、彼らが記載した恐竜には重複していたり、新種として記載するには不十分で無効名になった種も含まれていることがわかりました。 136種のうち、現在有効になっている恐竜は32種です)。
最終的には2人とも発掘費用が重くのしかかり、破産してしまいます。晩年は「幸せいっぱい」って感じではなかったそうです。
しかしながら、彼らが残した多くの標本・論文はその後の古生物研究にとって貴重で、2人の功績は計り知れません。

2人の功績は大きいものですが、アメリカの古生物学会にとってマイナス面も残しました。 「敵対心をむき出しに、新種記載を急ぐあまり、十分な検証がおろそかになる姿勢」や 「お互いの妨害工作により、貴重な化石が壊されていた」事実が世間に知られることになり、 その後何十年も、米国古生物学会は 欧州から卑下されつらい立場だったそうです。

コープとマーシュが記載した主な恐竜

  属名
コープが記載した恐竜 カマラサウルス、コエロフィシス、
マーシュが記載した恐竜 ディプロドクス、アロサウルス、ステゴサウルス、トリケラトプス

 


アジア初の恐竜化石発見 - アンドリュース探検隊(1922-1930年)

1922年春、ロイ・チャップマン・アンドリュース(Roy Chapman Andrews)率いる探検隊(総勢26名)が中央アジアを訪れました。 彼はアメリカ自然史博物館の科学部門スタッフ。探検の目的は、"人類の起源を探る痕跡"をみつけることでした。 当時、人類や哺乳類の起源は中央アジアにあると考えられ、中央アジアは「人類のゆりかご」と称されていたのです。 「人類のゆりかご」説を証明するため、 1922年4月17日アンドリュース探検隊は中国河北省を出発してモンゴル・ゴビ砂漠を目指しました。 この4月17日を「恐竜の日」と定めている団体もあるそうです。

プロトケラトプスの全身骨格化石

プロトケラトプスの全身骨格化石(2014年撮影)

1922年9月、ゴビ砂漠から中国・北京へ戻る途中で探検隊は保存状態の良い頭骨化石を発見します。 発見当初は哺乳類のものと考えられましたが、翌年1923年「角竜類プロトケラトプス(Protoceratops andrewsi)」として記載されることになります。 種小名"andrewsi"は、ロイ・チャップマン・アンドリュースに由来しています。

1922年に続き、1923年、1925年、1926年、1930年と、計5回のモンゴル探検・調査を実現させます。 5回の探検・調査で、プシッタコサウルスオビラプトル(オヴィラプトル)バクトロサウルス、アレクトロサウルス、ピナコサウルスなど51種の新種古生物を発見することになります(古生物の化石標本数にいたっては、2万6000点に及びました)。 特に興味深い発見は、1923年の探検で見つけた「プロトケラトプスの大量の卵化石」でしょう。巣を形成している状態が残されていました。

1931年以降6回目の探検も計画していましたが、中国・モンゴルの政治状勢が不安定になったため、1932年8月アンドリュースは中央アジアの事務所を閉じてアメリカに帰国します。 (日本が関係している同地域での政状事件として、満州事変(1931年)、日中戦争(1937年)が挙げられます)


恐竜研究の停滞期(1940-1950年代)

1940年から1960年ごろまでは恐竜研究にとって、長い停滞期とよべるほど影の薄いものになっていました。 1940年代にソビエト(現在のロシア)がモンゴルに恐竜のための調査団を派遣しましたが、多くの国・グループからは「恐竜は進化の過程で絶滅した、注目に値しない存在(進化の過程での失敗)」と見なされたのです。 当時の生物・地球学を扱う学会では、恐竜より優れたと考えたネズミやウマ目への研究により多くのヒトとお金が割り当てられました。


恐竜ルネッサンスとジョン・オストロム(1960年代後半)

デイノニクスの全身骨格化石

デイノニクスの全身骨格化石(2019年撮影)

1960年代後半、一部の古生物学者が改めて恐竜の研究を活発化させました。 これまでの「恐竜は鈍足」なイメージを覆し、「恐竜は社会的な行動を伴った、活動的な動物だった」という見解を主張し始めたのです。
きっかけは1964年にアメリカ・モンタナ州で見つかったデイノニクス(Deinonychus)です。 この鳥類に似た小型恐竜の発見が、恐竜へのイメージを大きく変えることになります。 イェール大学ビーボディ自然史博物館のジョン・オストロム(John Ostrom)は始祖鳥(アーケオプテリクス)とデイノニクスの共通する特徴を調べ、両者が進化上で密接な関係があることを示しました。 「鳥類の恐竜起源説」を唱えます。
オストロムは「やがて、デイノニクスが生息していた白亜紀前期(約1億1500万年前)より古い地層から、より鳥類に近い恐竜(獣脚類)が発見されるはず」と予測します。 その後の発見により、オストロムの予測が正しかったことは証明されることになります。

オストロムの研究・見解は雑誌やテレビなどで取り上げられますが、その考えを広く世間に示したのは彼の弟子だったロバート・バッカー(Robert Bakker)でした。 ロバート・バッカーは骨の構造を調べ、 恐竜の成長速度や歩行速度、身体の構造まで研究しました。 その結果、身体はトカゲやワニなどの爬虫類よりもむしろ哺乳類や鳥類に似ており、恐竜は温血動物だったと主張します。 "恐竜=爬虫類=変温動物"のイメージが強い中で、鳥類と同じく恒温動物だった可能性まで示唆しました。
恐竜研究の停滞期(1940-1950年代)に世間がもっていたイメージ「進化の過程での失敗」ではなく、恐竜は鳥類へ続く進化的に優れた成功者だったと主張したのです。


恐竜発見・研究の黄金期(1990年代以降、現在に続く)

1970年代、オストロムやロバート・バッカーの主張に触発されて、多くの研究者たちが恐竜に注目し始めました。 それまで欧州、北米が中心だった恐竜研究も、ソビエト連邦(ロシア)、中国、アルゼンチン、オーストラリアなどさまざまな国で恐竜研究が活発に行われるようになります。 現在では、南極を含む全大陸から恐竜化石が発見されています。

1996年中国・遼寧省で羽毛恐竜シノサウロプテリクスが発見されたことをきっかけに ジョン・オストロムが主張した「鳥類の恐竜起源説」は定説となっており、 現在多くの学者によって「鳥類のもつ特徴がどのように進化したのか」を知るために恐竜の生態や構造が研究されています。

特に近年の研究は加速度的に発展しており、X線CTスキャンやコンピューターの発達、骨組織学の手法、軟組織の発見などによって、 従来知ることが難しかった恐竜の皮膚色、性別、生活様式、身体能力も推定することが可能になりました。 古生物学、現生物学、獣医学、地球科学をはじめ、コンピューター技術、電子顕微鏡や放射線検査に代表される測定技術の発展など さまざまな分野で活躍される専門家によって、今後さらに恐竜に関する多くの知見が私たちを驚かせてくれると思います。

 
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