国際動物命名規約と先取権
有名な「ティラノサウルス(Tyrannosaurus)」の属名がなくなる可能性があったことをご存じでしょうか。
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動物の学名を決める基準は、国際動物命名規約によって定められています。動物の命名は、先取権が原則となっています。つまり、「先に論文を発表し、先に名前をつけたもの勝ち」なのです。
[ブロントサウルス(1879年命名)]と呼ばれた恐竜が、先に命名されていた[アパトサウルス(1877年命名)]と同一属であることが分かり、 「アパトサウルス」を有効名とし、「ブロントサウルス」の学名が無効となったことは有名なお話です。 (ブロントサウルスとアパトサウルスの属名については2015年に新たな説も提唱されましたが、まだ論争が続きそうな雰囲気です。 「別属とするべき」と主張した2015年の論文にも、反対の意見が出されている状況です。)
ティラノサウルスの命名と1回目の危機
オズボーンが命名するときに掲載した化石です
「暴君トカゲ」を意味するティラノサウルスが命名されたのは、古生物学者ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンが記載した1905年の論文でした。アメリカ・モンタナ州で1902年に発見された化石について調査したものです。
ティラノサウルスには命名時に1回目の「名前が消滅する危機」がありました。オズボーンは同じ1905年の論文の中で、別の化石標本に対して『ディナモサウルス(Dynamosaurus imperiosus)』という名前も付けていたのです。
翌年になり「これら二つの化石は、同じ恐竜のものである」とオズボーン自身が気づき、学名を統合することになりました。
この時、論文内で「ティラノサウルス」の記載が数ページだけ前(ページ先取権)にあったため、ティラノサウルスが有効名として残り、ディナモサウルスの名前は消滅しました。もし記載の順番が逆であれば、私たちは今頃この最も有名な恐竜を「ディナモサウルス」と呼んでいたかもしれません。
最初の化石発見:「マノスポンディルス」
そして時は流れ、2000年6月。ティラノサウルスの名前を揺るがす最大の危機が訪れます。
時計の針を戻しましょう。ティラノサウルスが命名される13年前の1892年、著名な古生物学者エドワード・ドリンカー・コープは、サウスダコタ州で発掘された恐竜の化石に『マノスポンディルス・ギガス(Manospondylus gigas)』と命名していました。
しかし、当時コープが発見した化石は「わずか2つの不完全な脊椎(背骨)」のみでした。化石があまりにも少なかったため、これがどのような恐竜なのか長年正確には分かっていなかったのです。
2000年の再発見と2回目の名前消滅の危機
2000年、サウスダコタ州のブラックヒルズ地質学研究所(ティラノサウルス「スー」の発掘などで世界的に有名なチーム)のピーター・ラーソンらが、100年以上前にコープが発掘した正確な場所(タイプ産地)を再特定し、追加の発掘調査を行いました。
その結果、驚くべき事実が判明します。その場所から、ティラノサウルスと明確に分かる部位を含む残りの骨が多数発見されたのです。それは、1892年に発掘された「マノスポンディルス」と同じ個体の骨でした。これにより、マノスポンディルスとティラノサウルスが同属であることが示されたのです。
さて、学名に関する先取権の原則に従えば、名前の優先権は1892年記載の「マノスポンディルス(Manospondylus)」にあります。「ティラノサウルスの属名は無効名となり、マノスポンディルスが有効名になるのでは」と古生物学界に大きな論争が起こりました。
もしそうなれば、発行されている恐竜図鑑はすべて差し替えになります。人気のあるティラノサウルスが載っていない恐竜図鑑など存在しませんから。また、世界中の自然史博物館、教育現場や古生物関連を扱うところに大きな混乱を招くことは必至でした。
ティラノサウルスを救った「例外措置」
「ティラノサウルス」の名前を救ったのは、国際動物命名規約に定められた厳格なルールに基づく例外措置でした。
厳密に学名の先取権を適用すると、それまで一般に広く受け入れられてきた学名が、全く知られていない名前に置き換わることがありえます。それでは科学的コミュニケーションにおいて大きな利便を失ってしまうため、一定の条件を満たした場合にのみ「先行権の逆転(Reversal of Precedence)」という例外措置(強権発動)が認められています。
奇しくも騒動のわずか半年前、2000年1月に発効した「国際動物命名規約 第4版(第23条9項)」では、この例外措置を適用するための具体的な条件が以下のように明記されていました。
- 遺失名(Nomen oblitum): 古い方の名前(マノスポンディルス)が、1899年以降、有効な学名として使われていなかったこと。
- 保全名(Nomen protectum): 新しい方の名前(ティラノサウルス)が、直近の50年間に「10人以上の著者による25以上の出版物」で有効な学名として定着して使われていたこと。
ティラノサウルスはこの厳しい条件を満たしていました。この規定が適用された結果、古い「マノスポンディルス」は遺失名として退けられ、「ティラノサウルス」が保全名として正式に守られることになったのです。
まるでこの例外措置の規定そのものが、世界で最も有名な恐竜の学名を守るためにタイミングよく設定されたかのようにも感じられます。こうして「ティラノサウルス」という名前は、これからも私たちの図鑑に残り続けることになりました。